(聞き手)
震災時、大代東集会所には、たくさんの皆さんが集まっていたのでしょうか。
(三浦様)
震災後、集会所には、時間が経つごとに避難してくる人が増えていきました。震災当日の夜は、孫と一緒に、多賀城東小学校敷地に避難させた車の中で過ごしました。学校も当時は寒かったので、学校の中では寝ることや座ることができませんでした。なにより孫のことが心配でした。ガソリンも無くなる事を心配して、車の暖房は付けたり消したりしていました。ですから、寝たと言うよりは休んだと言った方が近いでしょう。
それから3月28日まで、大代東集会所にずっとおりました。その間、暇を見つけては自宅の片付をしていました。そして、確か3月28日か29日の日曜日に、地域の皆さんと相談して、一時避難所としての大代東集会所を閉鎖することにしました。
(聞き手)
では、それまでは、大代東集会所を避難所のように運営して、その運営にも携わっていたのでしょうか。
(三浦様)
そうです。私と地域の皆さんで、どうするか考えていた時に、ある「役員の方が「各自自宅にあるものを持ち寄ってはどうでしょうか」と提案されました。その提案を、私が避難していた約120人の方々に伝えて、近くの人たちには一度帰っていただき、何かしら持ち寄ってもらいました。当日の夜は何も食べませんでしたが、次の日の朝以降は、持ち寄ってもらったものを食べる事ができるようになったので、そこは比較的早めに対応できて良かったところだと感じています。
(聞き手)
炊き出しもされたのですか。
(三浦様)
炊き出しもしました。米などを持ち寄って、20日頃まで物資の不足分を補っていました。また、役員を集めて朝にミーティングを開き、前日の反省や、その日の事を話し合ったりしていました。それらを、避難者の方に伝えながら運営しておりました。
(聞き手)
物資は届いていましたか。
(三浦様)
物資については、私が市役所にお願いに行きました。この地区の指定収容避難所は多賀城東小学校です。大代東集会所は一時避難所として開設したため、物資は届きません。ですので、市役所の責任者の方や担当課長のところへお願いに行って、大代東集会所にも物資を配って欲しいと頼みました。最初は百数十人分でしたが、物資は次の日には届いていたと記憶しています。
日が経つと自宅へ帰る方もいたので、何回かの人員の変更の報告をしました。ですから、私の所は比較的恵まれていたと思います。それから、水道は細々と出ていたので復旧まで少し使えて、トイレも使えたので、だいぶ助けられました。
(聞き手)
暖は取れずにいたのでしょうか。
(三浦様)
偶然、集会所に灯油の買い置きがありましたので、それを使って暖を取りました。後は、灯油を持っている方にお願いをして分けてもらっていました。それから、別に200リットルの灯油もいただいたことで、だいぶ落ち着いた避難所になりまして、自慢ではありませんが、全てにおいてモデルになった避難所だと言われました。
(聞き手)
こちらでは浸水被害はなかったのでしょうか。
(三浦様)
大代東区は当時350世帯ありましたが、その中で床上まで浸水したのは4世帯だけです。他にもだいぶ低い所がありますが、そこは床下ギリギリの状況でした。
(聞き手)
正確には指定収容避難所ではなかったとのことですが、運営するにあたって区長さんとして苦労された事はありますか。
(三浦様)
まず、何も情報が入ってきませんでした。そして、行政防災無線も壊れてしまったので大変でした。
話が変わりますが、ここの集会所は平成18年10月に耐震工事を終えていました。自主防災組織は、平成17年4月に立ち上げて、震災前に帽子やベストなどを買って整えていました。この備えは大変良かったし助かりました。
今は自主防災組織がどこにでもあると思いますが、大抵のところは、区長が町内会長を兼ね、さらに、自主防災組織の会長も兼ねていると思います。
ですが、大代東区では、その自主防災組織の会長を切り離し、単独にして、震災時にはその人に任せる事にしています。町内巡視をしてもらう時はトランシーバーを持ち歩くように頼んでいたので、この集会所で指示を出す事が出来ました。ですから、私はあまり現場には出ていませんし、集会所での連絡調整に専念することができました。
それから、灯油を200リットル頂いたので、避難所に入っていた人たちは温かく過ごす事が出来ました。それに、スムーズに物資が届いたので、その場で食事をする事も出来ました。それと、大代東区の民生委員はベテランで、しっかりしている方で、一人暮らしをしている人のお宅へ、他の方と一緒に物資や食べ物を配って頂きました。
私が集会所に居た時のことですが、自主防災組織の会長から「人が倒れているから来てくれ」と言われ、救急車が来るまで、以前、研修で習った心肺蘇生法を初めて行いました。他にも、自宅の家具が倒れているので起こしに来てくださいと要請があったので、トランシーバーで連絡し、現地に人を向かわせた事もありました。私は集会所で指示に専念する事が出来たので、その点は良かったと思います。
この場から離れたのは、市役所へ行った時くらいです。物資を頂く時、給水車を回してもらうよう頼みに行った時、ガソリンをもらいに行った時、物資の数を変更した時の4回です。それ以外は待機していました。したがって、特に苦労したとは思っていません。
(聞き手)
ご自宅の被害はどうでしたか。
(三浦様)
自宅は高い場所にあるので、浸水被害はありませんでした。地区では、瓦が壊れる被害が多く出て、我が家でも2階の瓦を交換しています。大代東区は地盤が比較的固いので、自宅付近は、大きな被害はありませんでした。
(聞き手)
震災当日、津波の情報はどのように聞いていましたか。
(三浦様)
ラジオでは、大津波という表現がされていたのかは、はっきり覚えていませんが、津波が来ること自体は聞いていました。勤務先のラジオでも聞いたと思います。ですが、津波に関してはあまり緊迫した雰囲気にはなりませんでした。
電気が4日目に通ったので、その時にテレビの映像を見ました。仙台市蒲生地区で数百人が行方不明だとはラジオで聞いていましたが、そこで初めて津波の大きさを実感しました。
(聞き手)
これからは、こういう行動をしてほしいなどの要望はありますか。
(三浦様)
今まで避難訓練を継続して実施してきましたが、その訓練通りには事が運びません。自分でも防災グッズを準備していましたが、それを持たずに避難していました。その後、震災の年の8月に地区のアンケートを取りました。大代東区は借家の方が多く、中には集会所がどこなのかわからない人もいます。もう一つの問題は、一人暮らしの人たちを把握する事です。家庭の事情もあるので、そこに踏み入るのもどうかと思う事がありました。しかし、そういう事は民生委員さんに頼りました。ここの民生委員さんは、とてもしっかりした方なので、物資を配る以外にも色々と動いて頂きました。
(聞き手)
安否確認はどのように行っていましたか。
(三浦様)
全世帯の安否確認をしたかったのですが、することが出来ませんでした。役員による巡回や、指定避難所である多賀城東小学校に大代東区の人が何人来ているのかは把握していましたが、一軒一軒回っての安否確認は無理でした。代わりに巡回を多く行いました。また、予め配った安否確認用の黄色い旗を揚げた方が6割近くいました。幸いけが人がいなかったので安心したところです。
(聞き手)
高齢の方も多くいらっしゃいましたか。
(三浦様)
ここは他の地区に比べれば特に多いと思いません。大きい県営住宅が5棟あり、そこに一人暮らしをしている方がいます。ですが、具体的にどこの部屋に誰が、どんな方が住んでいるのかまでは把握出来ていませんでした。
(聞き手)
そういう事は区長さんでも知らないのでしょうか。
(三浦様)
市から、災害時要援護者の名簿はきていますが、全員と会う機会はありませんので、100パーセントはわかりません。敬老会などの行事などに参加される方、また、何かの機会で会う方々はいますが、どのような支援を必要としているか、その詳細まで把握することは、なかなか困難です。その点、民生委員さんは、私よりも詳しいので、何かあった時には必ず、どこのお宅がどうだったかの民生委員さんからの報告を頂いています。
(聞き手)
震災以前は、どのような対策や備えをされていたのですか。
(三浦様)
個人的にしていたのは、防災グッズを揃える事くらいでした。まさか屋根瓦が落ちるほどの地震が来るとは思っていませんでした。一応、食器棚を閉めたり、高い所にある物が落ちないように、また、倒れないように工夫はしていました。
町内会においては、全体の防災訓練や役員だけの通話訓練などに加え、講話による役員と班長の勉強会、それに、テント、発電機、トランシーバーなどの購入などをしていました。
(聞き手)
そういった備えは役に立ちましたか。
(三浦様)
役に立ちました。妻が家にいましたが、物が倒れて怪我をすることはありませんでした。タンスなども倒れずに安心しました。町内会については、特に備品の不足などはありませんでした。ガスがなくなって、手配したくらいです。
(聞き手)
多賀城市にはどのくらいお住まいでしょうか。
(三浦様)
40年ほどなると思います。今の家に35年ほど住んでいて、その前は下馬にいました。
(聞き手)
大代東区の年齢構成は、どのようになっていますか。
(三浦様)
敬老会は77歳以上が対象ですが、私の地区では全体の1割未満でした。6%前後だったように記憶しています。60歳以上となれば12%から15%ほどではないかと思います。
(聞き手)
若い人が割と多いのですね。アパートが多いのでしょうか。
(三浦様)
多いです。今は世帯数の55パーセントぐらいが借家です。借家住まいの方は比較的若い人が多く、転出転入も多くあります。
(聞き手)
チリ地震や宮城県沖地震、水害などは経験されましたか。
(三浦様)
チリ地震の時は高校生で、七ケ浜町の松ケ浜という地域の高台に住んでいました。その時は一切被害がありませんでした。津波の前兆として海の水が引いていくなどの光景なども全然見ていませんでした。地震については、実家や兄弟、親戚にも特に被害はありませんでした。ですから、あまり実感がありません。
宮城県沖地震の時は七ケ浜町役場に勤めていて、この時の七ケ浜町の被害は海に近い花渕浜に多かったと記憶しています。現地に知事が視察に来たことも覚えています。今回の津波ほどの被害は出ていませんでしたし、特にこれと言って大変な経験はした事がないので、その経験が活かされた、あるいは、活かされないということではありませんでした。
(聞き手)
震災前後で、防災訓練やイベントの実施状況は変わりましたか。
(三浦様)
取り立て大きく変わったところはありません。防災訓練は、震災前と同じように震災後も防災訓練を実施していますし、イベントも震災前とあまり変わりません。震災の年の行事で、夏祭りを中止にした程度です。少しずれますが、ここの集会所で、70~80人くらいの人が集まり町内会の総会を開いています。
私はかれこれ33年近く町内会に携わっていますし、平成6年に大代南区から分区した時から総務をしていて、3人の前任区長さんと携わってきました。2013年11月4日の防災訓練にも89人ほど集まり、公園で訓練を行い、多賀城東小学校まで皆さん一緒に歩いていきました。そういう事は徹底して協力してもらい、感謝しています。質問がないといっても無関心というわけではなく、きちんと内容は知れ渡っているようです。新しく引っ越されて来た人でも、班長をして頂くと、しっかり活動して下さいます。
また、震災時に、役員の方々で被害を受けた方がおりました。そのため、回覧で、町内会運営のボランティアを募りましたら、大人の方2名と高校生3名の方に手伝いをしていただき、多賀城東小学校での食事や物資の配布をしてもらいました。大変助かり感謝しております。これも訓練と、日頃のコミュニティが活かされたものと考えています。
(聞き手)
震災前と震災後のコミュニティで変わった事はありましたか。
(三浦様)
私の地区は特に変わりないと思います。床上浸水した4軒には、私も顔を出しましたし、役員の人も手伝いに行きました。ただ、今回のアンケート結果の中には、集会所の場所がわからないという方が何人かいました。その方たちは、この地区に来てまだ新しい人たちなのでしょう。県営住宅は、どうしても年に4~5軒は住民の異動がありますが、今後ともコミュニティについては大きく変わることはないでしょう。
(聞き手)
多賀城市の今後の復旧復興に向けて、何かお考えはありますか。
(三浦様)
大代5区で協議会を作っています。代表区長だったので震災の前年に南三陸町役場に連絡をして、防災に関する視察に行きました。
震災後に、志津川に行きましたが、そちらに比べ、多賀城は復旧復興に関して比較的進んでいるように感じました。
多賀城市は危険区域の指定がなく、現地再建の方針を立てたため、元の場所に住む形を取っています。七ケ浜町や塩釜市では、個人の宅地を作るために宅地造成していますが、多賀城市では土地がないので、災害公営住宅しか作りません。自分の家を現地再建できない方の中には災害公営住宅に入る方もいるでしょう。桜木地区に建設する災害公営住宅戸の工事は進んでいるようです。特に工期に遅れも出ていないと思います。
(聞き手)
震災後に気を付けている点はありますか。
(三浦様)
前任の区長さんの時から「防災大代東」という広報紙を毎月発行しています。そして、そこには、注意を促す文章を必ず入れるようにしています。現在、一番大事にしている事は、余震が多いので十分気を付けるようにしてくださいという事です。そのための備えと、3日分程度の備蓄をしてくださいといった内容を必ず入れるようにしています。防災訓練の参加なども促すようにしています。他にも町内会の行事として、消防署や駐在所から来ていただいて講話を受けたり、指導を受けたりしています。もちろん、防災訓練も続けていきます。その広報紙の原稿は私が作り、印刷・発行まで手掛けますので、忙しくて大変です。ですが、そういった物で伝えていく以外にないのではないでしょうか。防災大代東も100号を超えましたが、今後も、防災と減災を呼び掛けていきます。
(聞き手)
他に何か、話しておきたいことがありましたらお願いいたします。
(三浦様)
先ほども申し上げましたが、震災に関して、市に物資などのお願いに行った時、色々とお世話になりましたので、この震災で直接の不満はありません。ただ、大代5区の指定収容避難所は多賀城東小学校だけなので、大規模災害時は、多賀城東小学校だけだと人が入りきらなくなってしまいます。地区の集会所で体の不自由な人たちも一緒に過ごせるように、小規模な避難所の指定と、備蓄や備品の整備をもう少し増やすといいのではないかと思います。
もう一つは、中峯橋の事です。指定収容避難所である多賀城東小学校に避難するためには、大代東区の住民は中峯橋を渡らないといけません。津波の水がどんどん上がってきているのに、なぜ危険な橋を渡って避難しなければいけないのかというアンケート結果が数多くありました。大代東区でも高い場所がありますし、また、行政界を超えて、一時的に七ヶ浜町の高台などに避難すれば良いではないかと、この二つの案を、震災後の懇談会などで提案しました。
備蓄を分散させておく事も一つの案でしょう。学校には人が入りきれませんし、教室を利用すれば別ですが、避難場所は体育館ですから暖も十分にとれません。ですから、せめて歩けない方や年配の方は、近くの集会所に避難で済ませられるような方法が必要ではないかと提案しました。